自虐的クリスチャン

主は、御許に呼び寄せられる者をすべて、

訓練されるわけですが、それは嬉しいことではないと思います。

山中鹿之助のように言ってのけるのが正しいのかもしれませんが、

正直なところ、試練は避けて通りたい、

それは、誰でも同じではないでしょうか。

が、そうでもない人もいるようだと、最近気づきました。

いわゆる「逆境に強い人」と言うのでもなく、

見たところ、苦労にあこがれているようです。

うまく言えませんが、たとえば、

十分な努力をしないで招いた結果を、あたかも

主が与えたもうた試練であるかのように受け止め、

この悲劇的現状の中でも、主が確かに最善を為して下さっていると、

嘆きつつも感謝を捧げる「わたし」に酔っている・・・

ように見える人が、無きにしも非ず、なのです。

私にしてみれば、問題は本人の行動なのでして、

適切な判断、行動さえすれば、絶対に回避できることなのですが、

別に、問題でも試練でも何でもないわけですが、

そうしないばかりに、最悪の事態を招いていて、

あたかも死の谷のふちを歩んでいるかのように、

そんな自分に酔っているだけ、に見えるわけです。

もしや、殉教にあこがれているのでしょうか。

殉教したいのかもしれません。

こんな感覚を目にすると、日本は平和なんだとしみじみ思います。

ある意味で、例の「太平天国」的な信仰のようにも見えまして、

その無防備さゆえに、必要のない危険に身をさらしている、

といえるのではないでしょうか。

彼らは、信仰により「死なない」と信じていたわけですが、

こちらは、信仰によって「死にたい」ところが違います。

世の中、苦労なんて山のようにあります。

日本の現在は豊かですが、見えない心は貧しいと言われています。

この世知辛い世の中で、余計な苦労を作り出すほど、

その人は幸せなのだろうと思います。

野球で、死球を放られても、逃げなければ死球とみなされません。

自らボールに当たっていくようなことをしても、

試練ではないと思います。

最大限に逃げても当たってしまったときに、死球とみなされます。

なんか違うと感じるわけです。

努力の方向が間違ってないでしょうか。

責任回避に信仰の名を利用しただけではないでしょうか。

それ、信仰でしょうか。

私は違うと思います。

が、信仰だと信じているとしたら、それこそ悲劇です。

と、思います。

神様の範囲と、人の行動の範囲とが分からない、

という疑問はいつもあります。

どこまでが自分で、どこまで頼っていいのか、と言う話ですが、

自分でできることは、自分がすればいいのではないですか?

天から火は降らないと思いますけど。

なぜなら、あなたが何も始めてはいないからです。

歩み出したとき、起ってくることには、

主は惜しみない恵みをくださると思いますが、

何もしないでは、何も起こらないと思います。

水飲み場に連れて行ってもらっても、飲むのは自分です。

そこで、飲まずに嗄れ果てても、美しくもないし、

誰も見向きもしないでしょう。

思うような評価も結果も無いと思いますが、

私には分かりません。

それこそ、主が最善を為してくださるように

祈るばかりです。