もともと日本語に、「愛する」という言葉は
馴染みのないものでした。
キリスト教徒は、今では、当たり前のように使いますが、
軽々しくならないように、注意したいと思っています。
何故なら、愛するとは、難しいことだからです。
愛は、痛いからです。
人を愛するとは、痛いことだからです。
主イエスは、私たちを愛したがゆえに、血を流されました。
痛みの極みです。
不完全な人間を愛するのは、どれほど痛いことでしょうか。
この痛みが、「愛する」ということだと思います。
しかし、愛せないことも、痛みです。
愛しているのに愛せないことは、痛みです。
主イエスを裏切ったペトロは、痛かったでしょう。
何故なら、イエスを愛していたからです。
しかし、愛せなかった。
愛しても痛く、愛せなくても、痛い。
「愛」に関わると、痛いのです。
だから、愛に深入りしない方がいいと
人は言うのかもしれません。
ただ、思うことは、
その「痛み」こそが、主イエスと私たちとを、
へその緒のように結びつけている要素だということです。
痛い、痛い、耐えられない、
悶絶するほどの苦しみは、天上へ駆けられている梯子です。
だから、主を知らずして、人を愛することなどできない、
そう思います。
この痛みに耐えるとは、人にはできないと思うからです。