今日は、お一人、教会の姉妹を送りました。
遺影は、キャンディのようにかわいらしいお顔で、
若さを悼みます。
身体は不自由な方でしたが、利発な方のようでした。
ようでした、と言いますのは、
お話をした記憶が、ほとんどない方だからです。
良く知らない姉妹でした。
が、その生きざまを伺い、信仰の軌跡を伺い、
同じイエスの手にある灯火を頼りに、
ひたすらに歩んだ者として、身近に感じました。
信仰者はそうでしょう。
イエスを間にして、私たちは繋がり、同じ歩みをしています。
人生の葛藤も困難も喜びもすべて、
イエスと共にあって、同じ経験だと私たちは思うことができます。
死は、基本的に残された者の感覚であり、
旅立った者は、解放だということができるのかもしれません。
彼女は、不自由だった体から解放され、
棺を蹴って跳び出し、出迎えた真っ白い衣のイエス様と共に、
声高らかに讃美歌を歌いながら、天へ駆け上って行った、
そんな姿を想像していました。
存在そのものが、信仰の証だった彼女。
生きざまそのものが、伝道だった彼女は、
今、「役目を終えて」天に帰りました。
と、牧師は告げました。
その通りだと思いました。そして、
「後は、任せたよ」
そう声が聞こえたような気がしました。
「後は、任せたよ」
「分かった、後は任せておいて」
心の中で返事をして、天へ駆け上る彼女を送りました。
キリスト者の死は、解放かもしれない…
明るい別れ、笑顔の約束、
また、天国で会いましょう。
勝利の冠を得た姉妹は、満面の笑顔を残し、
この地上を離れて行ったと信じます。