神様の愛

神様の愛は、裏切りません。

人には実践できないことだと思うので、

それを知ることはできないと、思ったりします。

どこまでも追いかけて来る、「失われた羊」を追うような

神様の愛、一人を探す愛は、経験できるものではないと思うわけです。

だから、キリスト者として教会に集っていても、

頭の中でしか知らない愛を信じることができず、

色々なことが起こってくるのではないかと、思います。

もっとも、本人は愛を知らないなどとは微塵も思ってはいないので、

知ったつもりになって、満足した気分になっている

想像の中で生きる動物になっている、気がします。

哀れです。

人は裏切るものだと知っているのに、希望はあると言い、

愛は変わるものだと分っているのに、永遠だと言います。

頭で考えた「神」は、脆くはないでしょうか。

霞のように儚いと思いませんか。

それならば、最初から期待せずに世を過ごして方が、

傷つかなくて済むのではないでしょうか。

 

それが、なぜかわからないのですが、

ふとした時、主が、それでも追ってきてくださることを知ります。

何故、どうして私を追うのですか、と逃げるのに、

何故か、ふり返ると私を追ってきてくださる神様の姿を見ます。

いっそ、あなたを知らない方が、絶望に沈んで死ねたものを、

神様は、私を追ってきてくださいます。

それが分かる時があります。

人は、幸よりも絶望に親しむものです。

ですが、その性質を打ち破って追いかけて来る愛。

決して裏切ることのない、愛。

風化することのない愛を、目の当たりにしてくださいます。

神様が出会ってくださったとき、全てを悟ります。

頭の中で描いただけの姿が、現実のものとして立ち現れたとき、

聖書に書かれていることが解ります。

私は、どれだけ逃げようと思ったか分かりません。

神様は、この世をお造りになりましたが、

あなたは、この世では、あまりに異質ではありませんか。

しかし、私は逃れられませんでした。

私は、他に行くところがありません。

幸をもって告白します。

こうして、主を選んでいる自分がいます。

不思議なことで、これが奇跡というのでしょうね。

私は、何者なのでしょう。

これほど愛されるとは。。。