割れたクッキー

インドのマザーテレサの所のシスターたちが、

貧しい子供にクッキーを渡している写真を見たことがあります。

その少年は、走って転んだような格好で、

地べたに座って、身を起していました。

説明には、シスターが差し出したクッキーも

直ぐには受け取ろうとしなかったそうで、それほど、

少年は素直さを失っているというようなことが書かれていました。

その写真ですが、一つだけ引っかかることがありました。

それは、シスターが差し出しているクッキーが、二つに割れていたからです。

なぜ、こんなクッキーを。これしかなかったのかな…

そう思っていましたが、理由がありました。

こうして割って渡さないと、彼らはそれを売りに行くというのです。

ですから、あえてクッキーを割り、売り物にならないようにして、渡していたのです。

シスターたちは、貧しい子供たちの生活も、気持ちも良く知っていました。

おなかを空かせた子に、このクッキーを食べさせてあげたくて、

人から見れば不思議に見えることを、シスターたちは行っていました。

本当に伝道したいなら、相手を知らねばなりません。

本気でイエス・キリストを伝えたいなら、

彼らと同じ視点に立たねばならないでしょう。

私たちの世界から見れば、クッキーは割れていないのはもちろん、

包装もきれいにして、リボンまで掛けるかもしれません。

彼らはたくさん持っていくでしょう。

有難うと、何度もやって来るかもしれません。

ですが、彼らは、そのクッキーを、一度も口にはしないでしょう。

彼らにクッキーを食べさせたければ、割らねばならないのです。

彼らにみ言葉を伝えたければ、同じ貧しさに立たねばならないでしょう。

それが、寄り添うということだと思っています。

だから、難しいと思います。

嘘が通らないからです。

そこまでできるでしょうか。人間にそこまでできるでしょうか。

 

神学を否定するつもりはありません。

知識がないと、誤ることがあると思います。

ですが、神学だけでは、人を理解することはできないと思っています。

その両方、学んで、実行して、考えて学び、実行する、

その繰り返しによって、信仰は練られていくと思います。

死にたいと一度も思ったことのない人が、

死にたいともがいている人を救うことができるのでしょうか。

飢えたことのない人が、虐げられたことのない人が、

裏切られたことのない人が、その苦しみから抜け出すための何かを

伝えることができるのでしょうか。

それは、難しいと考えます。

それをすべてご存じの方、

それが、主なるキリスト。

私たちは同じにはなれませんが、キリストに倣い、

伝道とは何かを学ぶのではないでしょうか。

一見、無駄に見えることも無駄ではない、

それは、主にあってそうだと、

私は、言えると思います。