神探す

雪原に梯子を立てて神探す   柏 禎

 昭和41年作

 

この句を発見して、驚きました。

心に響いたのですが、情景がよく分かりません。

勝手を言えば、雪祭か戯れか、想像はできます。

また、作者は青山学院大学を卒業されていますので、

キリスト教の神であったかもしれません。

ただ、キリスト者だったというお話は、聞いたことはありません。

昭和41年の作品であれば、まだ作者も50歳であり、

人生の途上、人生の一時代の区切りでもあるかと思います。

「神を探す」心境は、どのようであったのか。

雪原とは、何処だったのか、

なぜ、梯子なのか、

疑問が残りますが、どうでもいいようにも思います。

私は、神を探している一人の人間がいる、

そのことで十分だとも思います。

雪原へ来て、儚くも梯子を立てている作者は、

神を探していると言います。

神を探して、神を求めて、広みへ出、高みへ登ります。

しかし、いずれも弱い一人の人間が行うことです。

神へ伸ばされた手は、届くことはありません。

眼を凝らしても、神を見ることはできません。

そう、想像できます。

しかし、確かに神は、作者を捉えています。

なぜなら、「神」だからです。

神を探す人の儚さと、神の偉大さを対称とさせた一句ではなかったでしょうか。

私は、キリスト者として、

バベルの塔を思い、創造主、全知全能の主を思いました。

雪原へ出て、神を求める人の心を、

神は必ず捉えてくださっています。

私たちも、吹雪の中、神を求めることがあるでしょう。

孤独の中、一人むなしく至らない手を伸ばし、

神をこの目でとらえようと探すことがあるかもしれません。

その人の姿を、神は、確かに見ておられます。

困難があれば、それは、神を求める時です。

試練のとき、この一句を思い出しましょう。

神の眼は、私たちよりも先に、

私たちを探しておられたことに気づくことでしょう。