神様のえんぴつ 2

神の手段は人。

その意味で、人は人と生きるようにできていると思っています。

今から思えば、それほどでもなかったのですが、

今の方が、はるかにピンチですが、

ある時、私は人生の転換を迫られて、悩んでいたことがありました。

牧師をはじめ、身近な方に相談をし、ある決断をしました。

そして歩み出した道は、自分でもかなり困難だと承知していました。

が、急がば回れ、選択は困難な方を、などと考えて、

納得したうえで歩み出した道でした。

そうではありましたが、やはり厳しかったのでした。

もっとも大変だったのは、自分の気持ちを維持することでした。

あのとき、柄にもなく弱音を吐き、主に祈ったものです。

ただ、「頑張れ、大丈夫」と言ってくれる人が傍にいてくれたらいいのに。

ただ、話しを聞いてくれるだけでいいのに。

傍にいてくれるだけでいいのに。

そうしたら、私は頑張れるのに。

しかし、私に、そのような存在はありませんでした。

だれも声を掛けてくれる人はありませんでした。

私が声を上げればよかったかもしれません。

それもできませんでした。

私は、挫折しました。健康も失いました。

それから何年も、私は健康を取り戻すための時間が必要でした。

神様は傍にいてくださることを知っていました。

神様は、私を愛してくださっていることも知っていました。

それでも、私は、目に見える手が欲しかったのです。

誰かが手を差し伸べてくれたら、私は違っていたと、今でも思い出します。

ですが、それも私の決断です。誰かのせいにするつもりはありません。

私が間違っていた、それだけです。

今、私が言いたいのは、

人には人が必要だということです。

神様の愛を具現化してくれる存在が必要です。

行動してください。

それが信仰だと思います。

行動のない信仰は、愛は、まがい物です。