神の手段は人。
その意味で、人は人と生きるようにできていると思っています。
今から思えば、それほどでもなかったのですが、
今の方が、はるかにピンチですが、
ある時、私は人生の転換を迫られて、悩んでいたことがありました。
牧師をはじめ、身近な方に相談をし、ある決断をしました。
そして歩み出した道は、自分でもかなり困難だと承知していました。
が、急がば回れ、選択は困難な方を、などと考えて、
納得したうえで歩み出した道でした。
そうではありましたが、やはり厳しかったのでした。
もっとも大変だったのは、自分の気持ちを維持することでした。
あのとき、柄にもなく弱音を吐き、主に祈ったものです。
ただ、「頑張れ、大丈夫」と言ってくれる人が傍にいてくれたらいいのに。
ただ、話しを聞いてくれるだけでいいのに。
傍にいてくれるだけでいいのに。
そうしたら、私は頑張れるのに。
しかし、私に、そのような存在はありませんでした。
だれも声を掛けてくれる人はありませんでした。
私が声を上げればよかったかもしれません。
それもできませんでした。
私は、挫折しました。健康も失いました。
それから何年も、私は健康を取り戻すための時間が必要でした。
神様は傍にいてくださることを知っていました。
神様は、私を愛してくださっていることも知っていました。
それでも、私は、目に見える手が欲しかったのです。
誰かが手を差し伸べてくれたら、私は違っていたと、今でも思い出します。
ですが、それも私の決断です。誰かのせいにするつもりはありません。
私が間違っていた、それだけです。
今、私が言いたいのは、
人には人が必要だということです。
神様の愛を具現化してくれる存在が必要です。
行動してください。
それが信仰だと思います。
行動のない信仰は、愛は、まがい物です。