来し方

思い起こせば、高校へ入学したとき、初めて聖書を手にして、その直後、中学時代の友人が、部活の最中に心臓まひで急逝。自分を救うために聖書を読んで、読んで、以来、神様の存在を疑ったことはありません。その後、マザーテレサという方を知り、修道女に憧れましたが、家族の猛反対により早々と新しいルートへ。つまり、普通に歩いてきたわけですが、私は個性が強いようで、普通にするのが大変苦痛だったように思います。キリスト者になり、伝道者になるべきではと思い、三度願書を取り寄せましたが、一度も提出することは許されませんでした。自分の意志ではなく召命感や教会の推薦が必要だそうで、それは全く念頭にないことだったからです。母校にも尽くしたいと思い、職を求めましたが、それも許されず、「生きるため」などという言葉の下、現在に至るというわけです。

ただ、今、いろいろな困難に直面して、挫折しそうになったり、辞めたいと思うことがないわけではありません。その時に、伝道者の苦労は、おそらくこの比ではないだろうと思わされ、自分のいい加減さを顧みて、この程度の決意では無理だっただろうと思いました。ぎりぎりに立たされた時、今なら、私の責任において「やーめた」という決断も出来ないわけではありません。それでも、踏みとどまって「もう少し」と思えるとしたなら、その動機は自分に求めることではないと感じました。これは使命だから、と漠とでも考えられるかどうかにかかっていると思いました。召命感が必要とは、こういうことだったのかと知ったように思います。

現状が、主のみ旨にかなったものであるかどうか、それは分かりませんが、ただ、主は正解だ、不正解だといって、人を遇されないと分かっていますから、懸命に努めていれば、主は万事を整えて下さると思っています。困難な時には、最も早く、最も近くへいらして「どうしたの、どうしたの」と心配してくださいます。そのうち、「あなたは小さなことに忠実であったから」と、何かの役割をくださるかもしれない、そう期待もしています。その時に、十分な働きが出来るように、今があると考えています。弱いところが自分の眼に明らかになる日々ですが、忍耐強く、慎重に判断し、祈りを大切にしていくこと、主を求めることを忘れずに生きるように、そのための訓練だと思えば、希望が湧いてきます。明日の事もまるで分らない日々ですが、主にとどまって生きる姿勢をのみ求めていきたいと思います。人が生きるとは、どんな立場であれ、それほど違わないと思います。主がともにあると信じることが出来れば、自ずと道は開けると思っています。主の目に叶った道が、です。