俳句のご法度、つきすぎ。
「即」という字が正しいでしょう。
俳句は、季語を入れなければなりませんが、
ある場面に対して、あまりにも嵌り過ぎた季語を用いると、
「つきすぎ」だと言われて、却下されます。
たとえば、今日の御葬儀ですと、そうですね、
「盆の月」とか、早いですが「身に入む」とか、もう終わりましたが、
「梅雨じめり」とかは、いかにもという感じで、
わざとらしいと思わないでしょうか。
それよりは、「百合」や「冷酒」、「新涼」とか、
全然違うものを置いた方が、俳句に広がりが出て、
わざとらしさが無くなるでしょう。
もちろん、脈絡なく、離れすぎても良くありません。
取ってつけたような季語も「動き」ますので、良くありません。
さて、本日、教会で葬儀(前夜祈祷)が行われました。
12年も入院生活をなさった、95歳の方でした。
日本的な言い方をすれば、大往生ということになりますか。
12年は長かったでしょう。耐えがたいこともあったでしょう。
しかし、牧師は、愚痴らしいことは聞いたことがなかったと
感心されていました。信仰の賜物だと。
普通に考えれば、そのようなことはないわけでして、
おそらく、一人になったとき、試練が訪れたに違いありません。
心のつぶやきは、ただ、神様が受け止めて下さったのでしょう。
その意味で、人には及ばない、神様の支えがあったのだと思います。
ただ、人として、心のつぶやきを聞きたかったと、ふと思いました。
そのような言葉を打ち明けられる存在になりたいと、ふと思いました。
それが神様の御業、神様にゆだねられた業ではないかと思ったからです。
あのときに、あの老人の苦しみ、葛藤を目にすることができた私は、
幸いだったのかもしれない、そう思いました。
今日は、その別れの日。
ご家族の悲しみ、そして戦い終えた安堵、天の国へ送った平安、
それらが、各々の心に交錯する時だったでしょう。
悲しみを伝えるのに、「涙」の言葉は、つきすぎ。
ましてや「悲しい」は、禁物。結論は出してはいけません。
結論は、聞き手にゆだねましょう。
結論を言っては、聞き手の想像の範囲を狭めてしまいます。
別れの時、涙を流すより、こらえた方が悲しくないですか。
笑顔で送った方が、悲しくないでしょうか。
在りし日の笑顔や、楽しかった出来事を思い出した方が、悲しみを誘いませんか。
帰天された方の思いに沿い、自分の悲しみよりも、
その方の癒しの喜びを想像した方が、涙を誘うと思いませんか。
技巧的で申し訳ありませんが、つきすぎは悲しみを奪います。
嫌らしい私は、表現をこのような技巧を用いて考えてしまいます。
経験は技巧にまさりますが、ある程度の技術は用いても許されるでしょう。
さらば、つきすぎ。
相反するものは、想像以上の感動をもたらすことでしょう。